- アオキ裕キ(振付家)
- 和田監督は僕らの身体をゆさぶり、日常をゆさぶる。
当たり前のように不自由さの中に生きる身体にとって、僕らは叫びとなって存在し、奥多摩から生まれる暴風に乗り舞い上がって行こうと思います。
この映画の行末はきっとまだ誰もわからない。たくさんの方に届きますように。
- 天野太郎(横浜市民ギャラリーあざみ野主席学芸員/札幌国際芸術祭2020総括ディレクター)
- 国立奥多摩美術館は、2012年に平溝川沿の製材所跡にある。
その名の通り奥多摩、最寄駅軍畑からたっぷり20分程徒歩で辿り着く。
ここに、佐塚真啓、和田昌宏、永畑智大と言ったアーティストが共同というか協働しながら展覧会などを運営している。
助成金も得ているが、文字通り手作り運営である。
特に和田昌宏とは展覧会を通じて知り合い、荒唐無稽を装いながらも創造性の高い、そして広くリアリティを共有し得るその映像作品(とは限らないが)には毎回驚かされてきた。
そもそも映画とは、その著作権は誰にあるのかと言われることもある特異な分野、だからこそ大勢の関係者を巻き込んで、大勢で作ろうという企て。
誰一人欠けても成立しないであろうこの映画を早く観たいものである。
- 阿目虎南(振付家・ダンサー・俳優)
- 和田さんが映画を撮るという。私はその主演に抜擢された。私が和田昌宏の映像作品を鑑賞するときそれはいつも、暗室化された小さなギャラリーや、山奥にインスタントに小屋を組みスクリーンを設えたスペースにおいてであった。
危険な詩の匂い。彼の作品はそのどれも、鑑賞に際し白昼夢に似た心地を与えた。私は少人数ないし独りきりでその暗い空間に身を潜め、程よい硬さのソファに沈み込むように鑑賞に耽る。時折、映写機からスクリーンへと続く半透明の光の束をぼんやり眺めていると、空っぽの潮騒が満ちた。
本作撮影初日。現場は台風直撃後の、奥多摩。道すがら洪水の残骸を踏み締めながら、先日喫茶店で彼と話した言葉のピースに想いを馳せた。人と人とが通じ合う為に使われる言葉と、自ら言葉を失うことと。
私の演じる主人公は、おそらく私とはかけ離れた人種なのだろう。それで構わない。私は誰かを演じたことはなく、その役柄を私の中に探し、引きずり出してきた。或いはそれが必死で擬態することなのだろうか。私はいつも私に擬態してきたのだろうか。
カメラ越しの冷やかな視線に向き合う。
私は或る男と、或る男として向き合う。
私は問いかける。
和田昌宏が私を通して問いかける。
何を?
「Songs For My Son」
かの仔のための唄
かの仔における唄
君にはどんな唄が聴こえる?
それは監督である、和田さんの求める地平で再現を為されるべきなのだろう。
その為の遠い道のりに手が差し伸べられることを祈る。
- 市川 健治(メディアアーティスト)
- 「最終的には映画かな。」
アーティストを既に目指していた高校生の和田昌宏と出会ったときに、僕が聞いた言葉です。
それから、和田昌宏は、どこに行っても、彼自身で表現するアートにずっと貪欲に取り組んできています。その間に、彼が発表する作品を何度も観てきました。そして、何度も驚かされてきました。
その驚きを例えるなら、 少年時代、僕は「回転ジャングルジム」のてっぺんに登って、友人達に猛スピードで回してもらったことがあります。 その回ったときの体の内側と外側が混ざり合っていくような感覚。てっぺんから見上げる回り混ざり続ける秋の夕焼け空。
そして、パチンコ玉のようにジャングルジムの内側をぶつかり転がり落ちていく感覚。終には思い切り投げ出され、うつ伏せに全身で感じた冷たく硬い土。自分のアタマとクビの血管が脈打つ感覚。夕陽に染まった血液が溢れ出し大地に染み込んでいくときの色。仰向けになったときの友人達叫び声と空の色。
あの日の「回転ジャングルジム」での繰り返された初めての体験、体感した驚きは、まさに、数々の和田昌宏作品と対峙した時、数々の彼の作品に入り込んだ時に、感じた驚きによく似ています。
「どんな驚きなのか?!」
僕のように感じたい方々、、、
大丈夫です。
和田昌宏は、数々の表現を経て、ついに長編映画『Songs For My Son』を制作中です。
長編映画『Songs For My Son』の完成に向けて、皆様、是非、応援をよろしくお願い申し上げます。
高校時代に発した彼の言葉。
彼の熱い眼差し。
今でもはっきりと覚えてます。「最終的には、映画かな。」
- 井出賢嗣(アーティスト)
- 現代美術アーティストが映画監督に転身することはジュリアン・シュナーベル、スティーブ・マックイーンを代表として前例があります。
和田さんはキャリアの始めから映画セットを用いた作品を多数作っていました。
密閉した部屋空間にハエを飛ばしているインスタレーション、巨大な金塊の山をハプニングで倒すパフォーマンス。
彼の初期の代表作ケバブバンは軽トラの荷台に作ったケバブ屋の中でチェーンソーで丸太をケバブの肉塊のように削ぎ落とすパフォーマンス込みのものでしたが、これは図らずも「悪魔の生贄」のテキサスチェーンソーがオマージュされているものだと推測されます。
そして近年では日本昔話を参照した映像作品「コブトリ爺さん」「山姥」など日本独自のダークキャラクターへの研究を重ねてきました。
このように映画コンテクスト、キャラクターを現代美術の中に引き込んで制作をしていた和田昌宏が機が熟して映画を撮ります。
ようやく現代美術作家和田昌宏が映画監督和田昌宏に転身するというわけです。
初期の作品から大掛かりで妙な舞台美術を制作してきた和田さんだからどんな奇怪なものが映画になるのか、どんな新しい映画監督になるのかとても楽しみです。
彼の脳から繰り出される破壊的でありながらヒューマニティ溢れるイマジネーション、洗練とは異なるベクトルで先鋭化した造形センス、私的且つ普遍性あるナラティヴ、そのどれを取ってみても言葉足らずな感を否めない。
ただしこれだけは確実である。ある作家や作品の魅力について考える時、我々はその「語ることの困難さ」の中に視覚芸術特有の霊感の拡張域を見出しているのだと。
まだ見ぬものへ出資するのは非常に勇気がいることだ。しかし「和田昌宏が映画を撮る!」このパワーワードに宿る霊感に賭けるだけの価値はきっとあるはずだ。
でも、考え方を変えてみたらどうだろう。
現代美術の閉鎖性がそもそも高いのであって、和田の才能はそこに収まるものではない、という可能性はないだろうか。
最近は、アピチャッポン・ウィラーセタクンのように美術と映画を同時にこなす作家も自然に登場してきている(ついでに言うと和田の作風はタイの新鋭アーティスト、コラクリット・アルナーノンチャイに通ずるものがある)。
さらに言えば、和田のような「穏やかな狂気」を孕んだ作家がその資質を活かすには「展覧会」という装置だけでは足りないだろうとも思う。「映画」とはまさに、そんな彼にうってつけのメディアなのかもしれない(ついでに言うと和田の資質は、スタンレー・キューブリックに近いものがある)。
さらに言えば、不謹慎かもしれないけれど、いまクラウドファンディングで苦境に陥っているというのも最高だと思う。つまり、そもそも、いまの世の中が和田昌宏には狭すぎる、ということなんじゃないだろうか。
だからこそ支援して欲しい。
ほとんどなんの役にもたたず、新鮮な居心地の悪さのみが得られるであろう「映画」をサポートする、という一見不毛な営為こそが、世界をちょっとづつ広くしていくんじゃないだろうか?そういうクラウド・ファンディングがあっても良くないですか?
- 小川希(Art Center Ongoing)
- なんで俺が和田ちゃんの作品制作のために金出さないといけないんだよ。また搾り取るだけ搾り取るいつもの感じでしょ、、、えっ、映画?
うーん。
でも今までの映像作品とどう違うわけ。あ、すでにいくつかシーンが出来上がっているのね。
うーん。
確かに、おもしろそうだね。
うーん。
でもなぁ、いつもOngoingでタダ酒をひたすら探しているヤツだからなぁ。
この応援メッセージの依頼も、名前の部分だけを変えた、コピペメールだったしなぁ。どうも和田ちゃんの欲望のためにお金出すのがなんだか納得いかないんだよなぁ。
うーん。
タイトルは「Songs For My Son」っていうのね。
うーん。
いい映画って、映画監督が死んでも残るよね。ずっとずっと。そしてそれを観た次の世代が刺激を受け新しい文化を生み出していく。
そっか、
これ和田ちゃんの欲望のためだけの作品ではないんだね。
わかったよ。
払うよ。和田ちゃんのためではなく未来のために。リターンはA3の「お」をお願い。今振り込んだ。
次の世代に残る映画を期待しています。
和田ちゃんならできるよ。たぶん。
- 小澤慶介(インディペンデント・キュレーター/一般社団法人アートト代表理事/アーカスプロジェクトディレクター)
- 言葉少なに進む、和田昌宏の映画、『Songs For My Son』。登場人物たちは、言葉を奪われてしまったのだろうか。彼らは、追われ、彷徨い、追いかけ、どこかに向かおうとしている。
皆、何かを言いたげだが、それは明かされない。その一方で、主人公の口に棲むセイタイさんは、叫んでいる。東京の奥地で、静かに、少しずつ紡がれる物語。
来年の春、私たちのもとに届けられるのを楽しみに待ちたい。
- 久保寺晃一(脚本家)
- 俺なんかには到底追いつけないアイディアのケオティックスープ。
和田さん、早く世界を圧倒させてください。
- 小金沢健人(美術家)
- 僕は20数年前に東京の美術予備校で講師をしていたときに、当時高校生だった和田昌宏と会っている。
彼は手先が器用だったり口がうまかったりするタイプではなく、描く絵はコントラストがはっきりした筆圧の強いものだったような気がする。
6Bの鉛筆一本で描いたかのような荒々しさと勢いは本人の印象とそれほど遠くなかった。
その予備校の授業は通常のデッサンよりも、大喜利のような課題に取り組む毎日だったので、絵の巧拙よりもぶっ飛んだアイデアが評価されるのだが、彼は時々とんでもない発想の作品を提出していたように記憶している。
額の汗のむず痒さがそのまま宇宙開発につながるというような(これは僕のでっちあげた例ですが)、身体感覚が巨大なスケールのものと強引に接続されてしまうような不思議な感触があった。
実は「アーティスト和田昌宏」の作品はまだ1作しか見ていない(『黒い廊下、もしくは21人のネルシャツ』)。
面白いので2回見たがさっぱりわからない。
わからないけど面白いので続きが見たいと思っていた。
楽しみに待ってます。
- 小鍋藍子(ギャラリストAI KOKO GALLERY)
- 国立奥多摩美術館やインスタレーションのインパクトが大きいので、そこが目立ちがちですが、同時にプロジェクトに関わる皆さんの熱意もひしひしと感じます。
和田さんの作品は、それが彫刻だろうと映像だろうと、まわりにいる人のリアルな日常を取り入れながら物語が作られています。
身近な誰かやわたし自身がパラレルワールドにいるかのような、少しおかしいけど、せつなくて、ホロリともくる世界。「映画であり、美術でもある」という表現になっても、それはきっと鑑賞者へ伝わると祈っております。
初の長編映画へと踏み出す和田監督を、応援しています。
完成まで大変だと思いますが駆け抜けてください!
- 和田さんが新作映画を撮っているそうなのですが、制作途中のスチルを見るだけで怖すぎてちびってしまいそうになりました・・・
- 篠田太郎(美術作家)
- 和田昌宏ら国立奥多摩美術館の企画展示にはいつも胸躍らせられるものがある、少しノスタルジックだったりする要素もカタログやチラシの一貫したデザインにも表れていると思うが、独自で、かつ懐かしいのである。
メンバーのキャラクターも個性的で活動もユニークだけど、一見まとまりのないそれら個々の作家が国立奥多摩美術館として纏まると異彩を放つ。
今回和田さんは自身が監督する映画を製作中である。
予告編的な展示も拝見させてもらったし、撮り終わったカットも短い尺ではあるけど、拝見させてもらった。
脚本はまだ完成してないようであるが、なので和田さん本人にも説明ができないようなのであるが、なんとも不思議な映像で、国立奥多摩美術館の雰囲気そのままである。
印象として僕にはちょっとウッディー・アレンの「Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask」を思い出してしまう。
いずれにしろ不思議な雰囲気の映像が断片的に撮影が進んでおり、それが最終的にどのように編集されるのかまったく謎ではあるのだけど、そして内容も同様に謎だらけなのだけど、その断片的な映像だけでも目が離せないのも事実である。
僕としてはなんとか完成にこぎつけて貰いたいと思っている。皆さんのご助力も期待している。そしてその才能が花開けば我々にとってこんなに豊かな事はないだろうし、、、、。
- 柴田祐輔(アーティスト)
- ふとしたきっかけから応援という甘い蜜の味を知ってしまった私は、相手構わず手当り次第、貪るように応援をするようになっていた。あいつなら簡単に応援してくれるよと、巷では応援ヤリマンと陰口を叩かれるようになっても、その刹那的な応援をやめる事は出来ないでいた。追い求める理想の応援と、不甲斐ない自分の応援との埋まらないギャップ、どれだけ応援しても満たされない空虚感に、一人舌打ちを繰り返す日々。焦りと苛立ちはさらなる応援を呼んでいった。
そんなある日、近くの個室ビデオに流しの応援に向かっていたところ、古ぼけたアパートの入り口の椅子に80過ぎかと思われる老婆が座っているのを見かけた。老婆と目が合うと、ちょんの間のやり手ババアのようなゆっくりとした手つきで手招きし始めた。私以外に辺りには誰もいない。老婆は私を呼んでいるようだ。もしかしたら棚ぼたで応援にありつけるかもという浮ついた期待を胸に、老婆の方に近寄り声を掛けてみた。「なにか用ですか?」老婆が私の手に触れたと思った次の瞬間、視界がぐるりと回転し背中に激痛が走った。呼吸がうまく出来ずにぜぇぜぇとしている私を横に、老婆はゆっくりと元の椅子に座り、遠くを見つめて「背負投げ」こう言った。はっとした私は、雲ひとつない真っ青な空を眺めながら、和田さんから依頼された新作映画のクラウドファンディングの応援について考えていた。
これまでも映画作品が美術館で上映されたり、逆に美術の映像作品を映画館で上映したりと、映画と美術の映像作品のボーダーは度々議論され、越境が試みられてきた。たとえ同じ作品でも、見られる場所や環境が変わればその体験や語られる文脈が変わってしまう為、結果それらは異なるものとして受け入れられるだろう。私が昨年行った東南アジアでビデオ史を巡るリサーチの中でも、映画監督や映像を扱うアーティストたちへのインタビューの際に、この違いについて必ず聞くようにしていたが、「映画と美術の映像作品の間に違いはない」というのが様々な意見を踏まえた上での私の今の意見だ。
それでは今回和田さんが作る映画とは何を指しているのだろうか。それはこれまで美術作品として作られてきた映像作品と何が違うのだろうか。よりシネマティックな映像言語を多用したものを指すのか。それとも、作品の明確な物語性に依るのものなのだろうか。それとも、今回のようなクラウドファンディングで得た作品の規模の拡大を指すのだろうか。答えはまだ分からないが、映画と美術作品とでは、内容の違いを明言出来なくとも作品鑑賞前に観客から期待されるものに質の違いがあるというのは確かだろう。そしてこの期待の質の違いが作品の内容に作用しているというのもまた事実だ。
和田さんは今回、美術ではなく映画という類いの「期待」を背負ってみることでしか作り出せない「何か」、そしてその「期待」を裏切り、投げ飛ばすことでしか辿り着けない「どこか」に向かおうとしているのかもしれない。
新型コロナウイルス以前にあった旧型を誰も知る事がなかったように、私の応援もまた、誰にも見向きもされずに人知れず消えていく運命かもしれない。それでも誰にも必要とされない応援をやり抜き、新型を追い求める覚悟が今の俺にはあるか。私は青い空を見つめながら、それが応援かどうかすら覚束ない、声にならない声でゆっくりと応援してみる。うん、悪くない。まだ行ける。私は信じたい、信じてみたい。和田さんの新型の背負投げを、そして何よりもまだ見ぬ自分の新型の応援を。私はゆっくりと立ち上がって老婆にウインクすると、個室ビデオへとその場を後にした。
- 庄司尚子(横浜美術館コーディネーター)
- Ongoingの野獣派、奥多摩の鬼才、和田昌宏。夫婦、親子、友人、隣人など、身近な他者との間にあるどうしようもない分かり合えなさや、平坦な日常に突然ぱっくりと口をあける意味不明で不条理な出来事など、私たちが気づかない、もしくは気づかぬふりをしている人の業のようなものを、和田くんは敏感に感じ取り、描きだしてきました。作品に答えは用意されてないけれど、見終わったときいつもどこか明るい気持ちになるのは、和田くんが目の前で起こる出来事をまずはまるっと受けいれ、自分とむきあう人を信頼し、愛し、とことんつきあおうとするからかもしれない、と勝手に思っています。
その彼が、若き日から目標だった映画製作についに、ついに乗り出すという知らせ。トレイラー映像で断片的に明らかになってきたその内容には、これまで和田くんが発表してきた数々の映像作品のエッセンスがそこかしこに。見慣れた奥多摩の風景やおなじみの出演者に加えてHソケリッサが演じる『セイタイさん』の怪しさが画面に深みを増している!これが映画にまとまったらどれだけとんでもないものができるのか…と思うと、今から楽しみで仕方がないです。
でもいうまでもなく映画の製作にはお金が必要です。これまでもいろいろなことを犠牲にほぼ持ち出し、手弁当で製作してきた和田くんと、山奥プロダクションの仲間たち。ぜひちょっとでもお金の心配なく製作に取り組んでほしい!
ということでつたないながらいちファンとして心からエールを送りたく、みなさまのご協力よろしくお願いいたします!
- 武田はるか(フリーアナウンサー/ハートオブガイア代表)
- 良き仕事仲間である和田昌宏さんが初の長編映画監督として始動されました。
おめでとうございます!
『Songs For My Son』、2021年春完成予定。
主人公の男性は失語症になっていくという。
伝えたい言葉が口から外に出ない。大切なコミュニケーションツールを失っていく想像を絶する苦悩。それは内なる思いと外に向けての自己表現のふたつの世界の葛藤でもある。
私たち現代人は、もしかしたらすでに失語症かもしれない。
本心を語らず、良心に基づいた愛の言葉を発せず、その場限りの空疎な言葉で人との間を埋めるなど…自分らしい言葉を失ってはいないだろうか。
本来、言葉には力があり、魂込めて発した言葉は「言霊」として時空を超えて響くと私は信じています。
美術界において数々の賞を取り映像作家として活躍していた和田さんが、ジャンルを超えて映画で伝えたいことを是が非でも見届けたい!
私もクラウドファンディングでこの映画製作プロジェクトを応援しています!
- 多田玲子(イラストレーター)
- よくわかんなさそうな映画の予感がするけど、わかんない物や事って、面白いもんねえ。 口の中の世界&和田くんの頭の中の世界が、よくわからない面白い映画になるのをすんごく楽しみにしてます。
- 丹治 匠(アニメーション美術監督)
- 和田ちゃんの作品を観るとき、僕はいつも最初に驚かされ、次に考えさせられ、最後は心をきゅっと掴まれます。
彼が本気で映画を作るらしい。
それは映画でありながら美術でもあるらしい。
期待せずにいられません。
- 田中耕太郎(音楽家 / しゃしくえ)
- いま日本で最も狂気的な紳士である和田さんと、一緒に映画を作れるのがとても楽しみです。
そんなワクワク感と、先週めでたく無職になった悲哀を込めて、短いブルースを録音してみました。
- 千葉正也(画家)
- たしか2009年に渋谷で和田ちゃんとバッタリあって、NHKの前あたりでタバコ吸って、2人のユニットを結成しようと持ちかけた事があった。(やんわり断られた)
僕は、和田ちゃんの作品は終始一貫して彫刻作品だと解釈している。和田ちゃんは日本語の彫刻というのをやってるのだと思う。ほら局所的に発生する変な場においてのみ立ち上がる腐ったチンポコみたいな塊、アレを表現し続けているのだと思う。
本当の彫刻とはホームレスの足の裏みたいなテクスチャーで出来てなきゃおかしいだろ!?という妙な正当性を持った説教を聞いたみたいな、頭の下がる気持ちになる。(誰もそんな事言ってないが)
日本は、カムイ伝に出てくるみたいな江戸時代の虐げられた農村みたいに、これからまたなってくるのかもしれないし、和田ちゃんの作品がもっと必要になって来ると思う。あと海外の友達に、これ友達が撮った映画って自慢したい。こういう気持ちを僕だって背負ってるって説明しやすいし。
- 冨井 大裕(美術家)
- 和田さんが映画を作るという。その理由を聞いて得心がいった。映画館という空間でしか成立しない映像作品。かつて、ベルナルド・ベルトリッチは映画館で映画を観ることを羊水の中にいることだと言った。表現に立ち会うとは、そういうことかもしれない。和田さんのチャレンジは、新しいことへのチャレンジではない。映像作家として、美術家として、根源に向き合う、その為の闘いだ。
そう考えると、本作の案内人、安藤と「セイタイさん」はさながら映画「ランボー」の主役、ジョン・ランボーの様だ。言葉によるコミュニケーションを望まない男の、闘いが魂の咆哮と化すシリーズ恒例のラストに、エンターテインメントを超えた深刻さを見るのは私だけだろうか。
和田さんの根源を目指した闘いのラストシーン、現在の日本だからこそ早く見たい。応援します!
- 豊田記央(俳優)
- 「大型台風の関東上陸が予報されていますが、台風の中で、撮りたいと思っています。」
昨年の撮影数日前、初めて和田組に参加させて頂く私は、監督からそんな風に切り出された。
本気か、この人!? 、、、本気だった。
私は交通手段のストップで、撮影地の多摩山中に移動出来ず結局参加出来なかったが、撮影内容を変更して和田監督は撮れるシーンを撮った。
初っぱなから和田監督や和田組の沸き上がる情熱に打ちのめされた。
一昔前に『芸術は、爆発だ!!』なんて言うフレーズが流行り頭にこびりついていたが、この人の身体の中では、何かが爆発していると会う度に感じずにはいられない。
奥多摩の中での撮影は、刺激そのものだ。自然に慣れてない人間がちょっと山林の中に入ったらなんかビビってしまう。自然の脅威、みたいな。
森羅万象、全てに魂が宿るアニミズムじゃないが、奥多摩で撮影しているこの作品には全編、全シーンに精霊や魂みたいなもんが映ってんじゃねえか。
いや、実際は映ってないだろうし観れないだろうが、そんな想いを感じながら役者としての私はカメラの中に納まる。
この作品の中では人間の役者なんて、単なる一背景でしかない。
自然とか、人間の関係性とか全てがメッセージだ。
魂の浮遊分子が、爆発を繰り返しているこの和田監督の作品を完成させられないなんて、有り得ない。
皆様のお力を、是非にでも この作品に注ぎ頂きたい。
クラウドファンディングでの皆様のご協力を何とぞ宜しくお願いします!
- 中﨑透(美術家)
- 和田昌宏が映画を撮るって話を耳にした。本気らしい。
和田くんのことを知ったのは、拝島の米軍ハウスで「HOMEBASE」というオルタナティブスペースがあるらしいと耳にした頃だった気がする。結局行く機会はなかった。
作品を目にしたり、本人に会ったのはそれから数年経ってからだったと思う。
縁あって、水戸にある僕らのスペースで個展をしてもらったのもすでに10年前だったりする。
いつの間にか国立奥多摩美術館の一員になってるらしいと耳にした。
奥多摩美術館、謎すぎて興味津々なわけだけど、実はまだ一度も足を運んだことがない。
和田くんは遠くて近くて、いつも気になる届かない場所にいて、それ故に妄想が加速する。
和田昌宏はおもしろい。けど、なんでおもしろいのかさっぱり分からない。
結局のところ、僕は完成した映画を観ないかもしれない。
だけど、一体どんなことになっているのか僕は妄想が止まらなくなるだろう。
だから、止められない暴走が起こるほどに思う存分に映画を撮って欲しいと願っている。
- 二藤建人(美術家)
- 「和田昌宏が映画を撮る」と聞いて、これはすごいことが起こると直感した。
映像作家としての和田昌宏は彼自身のもつあらゆるアイディアや高い撮影技術を、何かを隠すために使用しない。
むしろ本来隠すべきものを絶妙に顕にすることで、そのことの意味と無意味の狭間に世界を作り出すことができる作家だ。
例えば和田さんは映像制作にあたり、躊躇なく家族や周辺にいる人物をキャスティングするし、自身の生活圏やその周囲をロケーションとして採用する。このことからも自らが眼差す世界の姿を「そう見えるように」演出するものではなく、「そう在る故に」そこに生まれざるを得ないものとして捉える姿勢が窺えるだろう。
和田昌宏は映画「Songs For My Son」によって日本社会の抱えるある状況を告発しようとしている。
しかしその告発の仕方は、政治家の演説のように内容の正しさを裏付ける事象を、矢継ぎ早に取り上げたりはしないし、コマーシャルな映像のように、共感を抵抗なく滑らせる為にゴツゴツした事象の岩肌をツルツルに整地したりはしない。
寧ろ自分が触れられるくらい近い現実の内に、鈍く反射する景色を見せようとしているのだ。
和田さんはこの映画製作にあたり(これまでの美術作品としての映像制作と同様)脚本を作っていないのだという。
自分の周りに偶然集まった人たちの姿を愉しみ、偶然訪れた大型台風を受け容れ、それら全てを映像制作のための重要な要素として信用している。これはとても美しい姿勢だと思う。
そうして和田昌宏による告発は今回、映画という大きなスケールの中で映し出される世界と人々の営みの内から、ゆっくりと、意味として溶け出してくることだろう。
誰も観たことのない、世に言われるのとは違った尺度の「美しい」映画が出来上がる。撮影が進みビジュアルが現れるにつれ、その予感が徐々に確信に変わりつつある。
- 信国道子・成保(アトリエ村「絵の会」)
- 美術から映画への挑戦を応援したい。
和田昌宏さんを知ってもらうには、「ヨコハマトリエンナーレ2014」を紹介するのがよいかと考えた。
ディレクター森村泰昌氏の芸術に関する主張は、人生のうっかりした忘れ物、人類の恒常的な忘れ物、現代という時代の特殊な忘れ物などを憶い出すための、いわば「忘却巡り」の旅がテーマ。
海外の作家40数名、国内作家20数名のなかに選ばれた和田昌宏さんの作品は、横浜美術館に入って直ぐ、広い空間のくつろげる階段があるのだが、そこが彼の展示スペースだった。
タイトル『遠い昔、はるか彼方の銀河系で…』
等身大の赤茶けたガンジー像が立ち、頭頂から水が溢れ出ている(この頃水不足が話題に)。傍には清水のタンクが沢山並べられて、冷やしたその水を飲めるサービスもあって、来場者はみんな飲んでいた。
さらに愛息清秋くんが冬から春にかけて、公園や動物園などで拾い集めたさまざまな《ガンジーの杖》が台の上に突き立てられ、拾い集める姿が映像化されている。
3階の高さのバルコニーのような場所から、神がかり的な義父の演説のようなおしゃべりが、モニター(受像機)から流れている。インスタレーションの中に映像を常に流していた。
どの作品も身近にいる人、もの、起こっていること、旅で出会った体験などをすくい上げて、造形したり、映像にする。それを普遍化して、鑑賞者に届けようとしてきた。
昨秋台風の後、観に行った国立奥多摩美術館には、大工仕事を得意とする彼が作った大道具、大きな唇や歯、そして不思議な通路が展示されていた。
奥多摩から発信する映画は世界にも届くのか?
小さな山間の町で在宅ヘルパーとして働く安藤公平が、バツイチで子持ちの彼女と結婚するつもりでいる。どんな展開になるのだろうか??
常に複数の仲間や鑑賞者と共に創り上げていく和田流の手法!!
税金の恩恵もない国立奥多摩美術館を起点にどうやり繰りするのか?
役者さんがノーギャラでは生きていけない。監督その他の皆さんも食べていけるよう応援してほしい。多額は無理、わたしたちも……。
- 原万希子(インディペンデントキュレーター)
- 今の日本のアート界で良い意味で最もヤバイ、予想のつかないアーティスト和田昌宏さんが新しい映画を作るためのクラウドファンディングで協力を求めてます!しかもこんなヤバい時期に(笑)
後30%で目標達成。こんな時期にだからこそ、応援してあげたい。ポスト・コロナの時代にはもっと過激で哲学的な思考がきっと大切になる。宜しくご検討、ご協賛お願いします。
- 東野哲史(非生産的生産活動家)
- 全米が泣いた。嫉妬で。令和時代最大のミステリー。★★★★★
- 堀内奈穂子(NPO法人アーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]キュレーター)
- 多くの個性的なキャスト、関係者、そして私たちさえも巻き込んで展開する奇妙奇天烈な映像世界!
ひとたび口の中の洞窟に滑り込めば、現代社会の中で「声」を失いつつある自分自身の滑稽な姿を発見するはずだ。
セイタイさんたちが発する叫び・表現は、どのように世界に轟くのか。
これは最後まで見届けたい。
- Mark Salvatus + 平野真弓(Load na Dito Projects, Manila)
- もう7年も前の話になるが、マニラにやってきたWadaは、白く淀んで悪臭を放つどぶ川にボートで乗り出すと言いだした。普段私たちが目を背けているどぶ川だ。水に充満する細菌が口や鼻や小さなかすりキズから入り込み、体を侵食してしまうかもしれない。
私たちはWadaに考え直すように何度か伝えたが、そんな周りの心配をよそに彼は一人で川に向かい、何事もなかったかのように撮影を終え東京に帰っていった。病気平癒のご利益があるとされるキアポ教会(の裏道)で売られている聖なる水を飲んだからなのか。こうしてマニラで制作されたWadaの作品には、清いものと汚れたもの、正常と狂気の間にあるあいまいな空間が、強烈な身体感覚とともに立ち上がっていたのを今も鮮明に記憶している。
皮肉なことに「Songs For My Son」の製作と時を同じくして、新型ウイルスが世界を先行き不透明な状況に陥れている。感染はボーダーを超えて急速に拡大している一方で、私たちは社会に根付いた深い病みが露呈されていくのを目撃している。
「Songs For My Son」が完成する頃には、私たちの目の前には全く異なる風景が広がっているのかもしれないと、外出禁止の発令されたマニラのアパートから想像を巡らせている。本作品は、現在の物語を、私たちを待ち受けている未知なる領域へと語り継ぐモニュメントとなるだろう。
- 三宅里沙(俳優)
- 国立奥多摩美術館での公開オーディションや撮影で、ああここはとても豊かな現場だ、と感じたことを覚えています。
関わっている方々の人柄が滲み出ている作品だとおもいます。
すてきな作品の一部となり、がんばりますのでどうぞよろしくお願い申し上げます。
- 村田峰紀(美術家)
- わたしはパフォーマンスアーティストで普段から人前で極限の肉体を見せています。
和田ちゃんともアーティストのコミュニティでかれこれ十数年の付き合いになる。
「俳優として協力してほしい。日当もだすから。」と誘われ、初の俳優だし自分に何が出来るか楽しみであった。
クラウドファウンデイングで書く事ではないのですが。
「和田ちゃんにお金をもらうということはどういう事か?! わかってるのか!」ってペインターのCさんに言われ、撮影初日を迎えた。
長靴を手渡され、台風で増水した川の中を何度も走らされた。長靴の丈を越える水位なので重いは冷たいは流れが強くて自由がきかないは。
Cさんの言葉が何度も頭をよぎった。
映画が完成しないとただの罰で終わってしまう。
きっとお金が貯まったらもっとエスカレートするのかもしれない。
ただ断片的な映像をみる限り、期待と可能性しか感じない。
複雑な気持ちもありますが!和田監督にご支援を。
- 村山悟郎(美術家)
- 和田昌宏監督が国立奥多摩美術館とタッグを組んで映画「Songs For My Son」を製作する。
このプレビューを観ただけでも、その熱量と狂気が伝わってきます。
私たちの社会が、いま抱えている病理、それを盲目と失語という症状として描くことへの切実さに強く共感します。
そして、それが「奥多摩」という東京の山奥から噴出すること。
本作は、映画や美術といった枠組みを超えて、世界に発信されるべき<文化的荒野・東京>の現在を映し出す怪作になるだろうと期待が膨らみます。
何より、いま手弁当で映画を撮ろうというクレイジーな仲間にエールを!
- 山寺雄二(気功師)
- 和田監督の「名前は浮かばない」に出演した山寺雄二です。霊能気功師です。
この「名前が浮かばない」は上野にいる見えない世界の住人(霊や妖精)とコンタクトを取って、出演させて下さいという無茶ぶりの依頼を受け、関わることになりました。
が…まさか自分が出演することになるとは。
和田監督は、普段はひょうひょうとしながら、人の能力を引き出す才能ある方だと実感しました。
独特の視点で独特の世界観を確立されているので、今回の映画「Songs For My Son」も今からとても楽しみに期待しています。
- 山本篤(美術作家)
- 和田作品をどう形容するか?この微妙な感覚を考えてみた。
そこで和田作品=ドクターペッパー論を少しだけ展開したいと思う。
万人が美味しいとは言わないであろうあの個性的な味。だけど、はまる人ははまる。時々飲みたくなる。
同じ現代美術のフィールドで越えるべき先輩であり、ライバルでもある和田さんの作品を、正直に言うと「不味い」と言いたい気持ちはある。
「不味い」という人もいるだろう。
作品を見ていて、完全無欠でないとは思う。でもやっぱり「美味い」のだ。
毎日は飲みたくないが、時々無性に飲みたくなるドクターペッパーのように。
よくわからない化学調味料を使った不出のレシピがあるのだろうが、そんなものを知っても、自分が作れるわけではないだろう。
都心から1時間ほど離れた東京西部で40年以上に渡って育まれた感性は「作品=ドクターペッパー」として結実し、群雄割拠の「現代美術=清涼飲料水」の世界で、確かな個性と存在感を放ち続けている。
当然すべての人におすすめはできないかもしれない。
でも一度体験して欲しい。「不味い」というのはそれからだ。
今回、和田さんは長編映画に挑戦している。「不味い」という準備はできているが、結局なぜか「美味い」のだろう。
より大きな舞台で、より多くの人たちとこんな微妙な感覚を共有したいと思っている。